とにかく「かけ!」 〜映画「かくかくしかじか」より / よもやま話 / By chanter 創作、制作という業務をやっていると、“書けなくなる”という状況に陥ることは、よくあります。考えがまとまらない、それ以前に、眠くてアタマが動かない、などなど。趣味の創作ならまだしも、明確に締切が待っている業務のそれにおいては、とにかく何かしら形を整えるしかない訳で自分に「書け!」とハッパをかけ深夜のオフィスで黙々…というのが若かりし日の日常でした。そんなことを思い出させてくれた(いや、個人的には思い出したくもない過去)のが先週末から公開された映画「かくかくしかじか」。 漫画家に憧れるも、ミーハー心で美大受験を目指すことにした主人公が、“美大予備校”のつもりで通い始めた絵画教室の先生に徹底的なスパルタでシゴかれながら夢への階段をスローペースで歩んでいく物語。今や大御所といっても良い漫画家となった東村アキコ氏の自伝的作品の映画化でヒロインを永野芽郁、先生役に大泉洋というこれだけでチケットの元が取れそうな布陣です。内容については、作品をご視聴いただきたいところですが、ポイントとして挙げたいのは2点。 ●“描くこと”は、“生きること”この先生の口癖は「描け!」。絵を志す人間は、絵を描くことで生きろというのが信条で、叱る時、励ます時、認めた時、いずれも「描け!」と教え子を叱咤します。特に、主人公が美大へ進むも、若さ故の怠惰に陥り絵が描けなくなるスランプを迎えるのですが、その際も「なんでもええから、とにかく描け!」と大きなキャンバスに主人公を叩きつけながら筆を取らせるシーンが象徴的。そう、絵描きにとっては、絵を“描く”ことが全て。迷いも恐怖も、キャンバスにぶつけることで道が拓けると。まだ、その道に入ったばかりの教え子に絵描きの“覚悟”を叩き込む姿に、先生もまた様々な絶望を数えてきたという悲哀を見ました。「描け」という叱咤は、「生きろ!」という激励。 ●“若さ”とは“愚かさ”前述のように、主人公は美大に進むことになるのですが、これが第一志望ではなく、滑り止めで受けていた地方の大学。宮崎で育った主人公が、また別の地方に流れた結果、怠惰な時間を送るようになります。同級生たちとの遊び、恋愛、自堕落な時間…多くの大学生にとって、極めてありふれた日常ですが、その時間を経て“働く人”となってから、また多くの大人は気づくのです。「なんて、無駄な時間を過ごしてしまったのか!?」 その“無駄”から学ぶことも有り、決して無駄な時間ではないとせめてもの言い訳をしてみるものの、所詮、無駄は無駄。覚えたのはセックスと嘘ぐらいなもので、あの時代に、もっと広い世界を見て、深い哲学を得ておけばより有意義な人生が待っていただろうにと30年経っても、あの時代を肯定できない自分がいます。それはさておき、この主人公も“負のループ”に陥り、一度は先生の叱咤により良作を描き切るものの、最終的には消化不良のまま美大を卒業。漫画家になるという夢にも近づけないまま「ふりだしに戻る」そのままに帰郷する羽目になります。 この当時は、ネットもYouTubeも無い頃。おぼろげな夢を抱えていても、その実現のために、どうしたらいいかなんて解らないんですよ。わたしも同じ時代を生きていたので、この状況が、自分のことのように解ります。遠いままの夢を小脇に抱えつつ、流されるようにやりたくもない仕事をせざるを得ない無力感も。その地獄のような毎日において主人公を支えるのは、やはり漫画家になるという夢。すがるものは、それしか無いんですよ。寝る間を削ってまで、コンテストへの投稿を始めます。挫折した若者にとって“将来”なんて永遠の向こう。それでも、漫画を描き連ねることで結果的に命を繋いだんですね。これを「努力」というか、「生存本能」というかは人それぞれでしょう。 広告業界の超末端ではありますが、いちおう、わたしも「書く」ことで命を繋いでいます。もっとも、かつて書きたかったものが何だったのか今や輪郭も判らなくなってきていますが、企業様の思いを言語化する、というコピーライターとしての業務にもやり甲斐は感じているこの頃です。わたしにとっても「書く」ことは「生きる」こと。もっと上手く書けるようにならねば。そう、おれも、もっと「書け!」そんな風に、この50歳過ぎのロートルにも元気をくれる良い映画でした。世間では、くだらないゴシップのために本作の宣伝が遠慮されているようですが、わたしのように元気づけられる人が大勢いることを思えばもっと広く語られるべき映画だと思うんですけどもねぇ。