謝らせたい時代 / よもやま話 / By chanter 最近の事例で言えば10時間近くにも渡って放送されたフジテレビの会見が浮かぶのですが、この10年ぐらいで、やたらと“謝罪”や“責任”という言葉がメディアやSNSで見られるようになったと思っています。 もちろん悪いことをしたり周りに迷惑をかけたりした場合は迅速な謝罪と対応が求められます。「“ごめんなさい”は?」と小さな子どもが親に嗜められているシーンを見たことも少なからずありますよね。それは、社会で生きていく上で、絶対に必要な“礼儀”であると。 ただ、一度間違いを犯してしまったら、ずっと謝り続けないといけないのか?一度の“スピード違反”を死ぬまで咎められないといけないのか?と昨今の“キャンセルカルチャー”を見ていると世間の“器の小ささ”に嫌な気持ちになることも少なくなく。 この“謝罪”にこだわる属性の方々が居ます。いわゆる“ヤンキー”の連中。暴力と威圧で自分達の存在を誇示してるつもりの彼らは言い換えれば反社会勢力の予備軍であるとも言えますが。この属性の方々は、自分達に些細な不利益が降りかかった際に、その相手に過剰に“謝罪”を求める傾向があります。ワイドショーなどで、コンビニの店長に土下座を強要している動画を見たことはないでしょうか?あれがその典型で、目に見えた形で、その“謝意”を表現するまで絶対に追及を止めないというのが特徴ですね。相手に土下座を強いるのは犯罪です。強要罪が適用されます。でも、自分に平伏し許しを乞う相手の姿に、その手の輩は溜飲を下げるのでしょう。数日後に、法廷で自分が酌量を求める立場になることも知らずに。 それを知った上で、現状を鑑みると不祥事を起こした企業や有名人に対しやたらと謝罪を求めたり、スポンサーに圧力をかけようとしたりする風潮は“ヤンキー属性”の思考が幅を利かせているように思えてなりません。“謝らせる快感”に固執しているといつか自分に跳ね返ってきますよと。それが今のフジテレビの立場であり、文春の立場でもあると。因果応報とは言ったものです。 昔の取引先に、制作の作業過程で起こる些細なミスに目くじらを立てて激昂する担当者がいました。もちろんミスは良くないことですが、人間のやることには少なからずミスは起こるもの。同じミスを重ねないことにこそ重きを置くべきなのですが二言目には「責任者を呼べ」「上司を呼べ」と大事にして自分に謝罪をさせるということを繰り返していました。恐らく全ての下請け企業に、その態度を取っていたのでしょう。最後には、自分が会社に責任を追求され関連のない部署に左遷されたと聞きます。「人を呪わば穴二つ」とは言ったものです。 むしろ、反省し謝っている対象にいかに“許す”ことを考えるかという視点こそ、これからは必要になってくるのではと思います。才能ある人物が、ビジネスと関係ないことで追及され仕事を追われるという事態が続くと、日本という国にとっても好ましくない未来が待っているような気がしてなりません。