“論破”は正義なのか / よもやま話 / By chanter 先の都知事選、大方の予想通り、現職の小池氏が3選を果たしましたが、一方で“対抗馬”と見られていた蓮舫氏を抜き2位に喰い込んだのが、前安芸高田市長の石丸氏。ネットを駆使し、主に若者の支持を得たとされています。ㅤㅤしかし、今回の開票前後から、石丸氏の立ち振る舞いに違和感が…。ㅤ記者などからの質問へ質問返しをしたり論点をすり替えたりしながら相手を責めていくいわゆる“論破”をしているところに今の若者はカタルシスを感じるのでしょうか。ㅤ思えば、ひろゆき氏やホリエモン氏など“論破”が看板になっている人も少なくなくコロナ後、特に顕著になっている気がします。“論破”によって相手より優位に立ちたいのか、相手を倒したという優越感を得たいのか…わたしの身の回りでも、この“マウント”を取りたがる人が一定数居ました。(苦痛でしかないことに気づき、今は距離を置いてます)ㅤㅤㅤしかし、それによって、何かしらの本質に気付けることなど無く、ただ嫌な気分が残るだけです。ㅤ悪い言い方をすれば「屁理屈」。相手は、その内容に賛同したのではなく、時間の無駄だと感じて“議論”から降りただけなのに、当人は勝ち誇ったような顔でいるのが滑稽ですらあります。そして、これをビジネスの場でもやる人も少なくなく、ただ持論をひけらかし、場を掻き乱すことで自分がその場を牛耳っているように誤解しているようです。実際のところは、総意の確認を邪魔しているだけなのですがね。話は戻って、石丸氏の話。既存の政治家を“政治屋”と揶揄し、自分がその風潮を変えていくという論調で喝采を浴びたという記事をいくつも見ましたが、そういったやり口で社会経験の乏しい若者をミスリードし、投票活動につなげたという点をみると、彼もまた、ただの“選挙屋”なのではないかと…。前職の安芸高田市での評価を聞くにつれそういう感情が強くなってきます。願わくば、論戦でマウントを取りたがる政治家より庶民の感覚でモノを考え、街や国を脅かす存在と人知れず戦ってくれる人に舵取りを任せたいものです。